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2018年12月19日 (水)

E399 Jaeger LeCoultre Geomatic School Watch

平成最後の11月、ある筋からこの時計のオファーがあり喜んで受けさせていただいた。JLCマニア歴約20年にして初めて目にした時計である。このようなものはこれまで存在が確認されていないはずである。なんといってもZaf本にも記録されていないし、20年近く前のものであるがJLCクロノメーターの決定版アーカイヴにも未記載である(コピーを所有している)。しかも今回ほぼ同時期に、世界中で少なくとも6個体をWeb上であるが確認することが出来た。おそらく複数個を持つ筋から同時期に流出したものと思える。その出所やルートは不明であるが、モノの性質上、時計学校そのものかその関係者とみるのが自然なのではないか。さてこの時計の特殊性を一言でいうと「スクールウォッチ」であるということに尽きるだろう。文字盤にそう書かれているのがなによりの特徴であるが、実はそれ以外にもノーマルE399と異なるところが複数あり、以下に列挙する。

・ダイヤルの仕上げがサンレイではなくラッカー仕上げ

・インデックスの形状が異なる

・針がドーフィン

・ケースバックにゴールドのメダルなし

Img_7101

文字盤の質感とインデックスの違いは見た目で特に顕著であり、プロポーションはE399そのものであるが別の全く別の時計のようにも見える。

ありがたいことにアーカイヴがついており、それによると製造は1962年、まさにGeomaticが世に出た年である。機械も前期型E399の特徴である881G(後期は883S)だ。JLCがGeomaticを発表した年に、このようなバージョン違いが少なくとも5個以上は学校に納入されたわけだ。またさらにE399と思われる個体のうち、通常のダイヤル・インデックス・針のスクールウォッチの写真も確認できることから、時計学校の教材となるものであれば良いとの考え方から、その時点で手に入るパーツを合わせて複数個を作って納品した可能性が高いと踏んでいる。

先ほど5個以上と書いたのはもう一つGeomaticではなく、Master Mariner表記の無いE557しかもクロノメーター表記つきというキワモノのスクールウォッチまで存在が確認されたからだ。なおこの個体はECOLE TECNIQUE VALEE DE JOUXと、EPVJではなく今現在も存続するETVJ銘に代わっている(66年以降と思われる)ので、こちらのほうがより新しいモデルだ。今現在のETVJのWebサイトを見ると、関連時計メーカーとしてJLCやAP、ブルガリなどのロゴも出てくる。当時からずっとJLCとは関係を維持してきているようであり、おそらくここの卒業生の多くは今もJLCやAPに居るのではないか。

 

ここでスクールウォッチの位置づけを確認する。懐中時代から1920年代頃までは少なくとも時計学校の卒業制作は懐中時計であったはずで、この卒業時の作品を一般的にスクールウォッチという。しかしスイスの時計学校の名前が文字盤に書かれたこの時計は、おそらく卒業制作ではない。アーカイヴが普通に発行されたように、すべてがJLCで組まれた状態でJLCの工房から学校に納入された、厳然たる「Geomatic」である。ということは、この時計はおそらく学校の教材であり、時計師の卵がこの時計を作ったというような「卒業製作」ではなく、時計学校の生徒たち、すなわち時計師の卵が分解・組立・調整を学んだものと捉えている。ゆえにおそらく何度も分解組立がなされたはずである。ただしこの「クロノメーター」を使っているところがミソで、オーバーホールというよりもどちらかというと調整を学ぶことがメインだったのではないか、と想像している。このような目的のものと解釈すれば、数は6個どころではなく数十個以上の単位で存在したはずだ。

どのような扱いを受けていたかは、機械をオーバーホールしてみればある程度分かりそうである。すなわち巻き芯止めのネジ、機留めネジなどの頭がどの程度いじめられているかで判断できそうだ。

先日もWeb上で変な仕様の666インヂュ(だったっけ)を見たが、このスクールE399のようにこれまで知られていないようなバージョンが今後も「発見」される可能性はもちろんある。既に熟成された時計市場ではあるものの、このような新発見はやはりマニアの心をワクワクさせるし、別個体の発見も期待される。この時計の素性は純粋の興味の対象であり、他の新情報にも期待したい。

 

追記:このような時計の市場価値というかプライシングは極めて難しい。サンプルが少なすぎるためほぼ相対交渉となると思われるが、想像したように数十個単位で現存し、万一ゴソッと市場に出てくるとレア度は下がる。実のところは仕手筋が全て入手済みで、小出しにして儲けを極大化しようと企んでいるかもしれない。売り手と買い手、流通ルートや彼らの戦略などを想像しながら手を出していくのも楽しいものである。

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2018年12月16日 (日)

腕時計のパッケージ

ようやくパッケージの話。某時計業界人と話をしていてこんな話になった。「時計学校を出た時はやはり機械に目が向いているので、複雑な機構を持つなど凝った機械や見た目の素晴らしい機械を作りたくなるのは自然である。が、時計全体のパッケージとして洗練されていて素晴らしいと思えるような時計は殆ど無い」まさにその通りと思う。

逆に時計師でない重度の時計マニアが作ったマイクロブランドは、良いパッケージを持ち、やりたいことがハッキリしている例もあると感じる。この筋でまず思い浮かぶのがDan Henryなどで、古参ではYao君が起こしたMKⅡWatchあたりか。少なくとも超高級ではない。実際彼らも価格とムーブメントという大きな制約の中でやっていると思うが、強い思いによって制約を殆ど感じさせないところが素晴らしい。

パッケージとして完成されている時計といえば、やはり老舗にはなかなか敵わないのではないか。雲上三大が作ってきた時計たちは、駄作もあるが総じてパッケージングがこなれている。なかでもPP96はパッケージとして完成され過ぎていて、結局それを超えるようなものは殆ど出来たためしはないと思う。

96_2

このパッケージという観点から見ると懐中時代、ケースを含むデザインは約200年にわたる歴史の中では殆ど変っていない。ペアケースがシングル化したというのもあるにはあるが、オープンフェイスかハンター、ハーフハンターくらいしか外見は大きく変わらないのである。全体的なプロポーションは、主に脱進器の進化により機械とケースが薄くなっていく程度である。懐中は基本的に機械のサイズにピッタリの文字盤と適正な長さの針が与えられ、それをぴったりと包むケースがあるだけだ。薄型の機械にはもちろん薄いケースが与えられる。そもそも懐中は、機械を選んでその機械のサイズに合うケースを組み合わせるというスタイルで販売された期間が長い。

懐中のデザインにおいて、言い放ってしまえばベゼルという概念は無く、それはただ単に風防を支えるフチである。文字盤上のデザインは、カレンダーやクロノなどの機構によって当然アレンジがされているが、クラシックとして現代に続くデザインは、実は懐中時代にほぼ完成していたと思える。インデックスはローマンか、ブレゲなどのアラビア数字が標準だ。絵を描いたり、モンゴメリーダイヤルと言われる主に女性用のデザインなんかもあるけどね。

ところが1900年代前半に懐中から腕化すると、風防を支えるフチはベゼルというパーツに代わり、ケースバックは単なるケースバックではなく常時腕に接触する部分となった。そしてもっとも大きな変化点がラグの存在である。ケースとラグ、この関係をどうするか。ラグとケースバックの位置関係や形状をどうするか。これが極めてナチュラルに、あるべき姿として現出したのが96であると思う。ケースもベゼルもラグも、もちろんアレンジはいくらでもできる。しかし、例えばスピマスのツイストしたラグはあくまでデザインであり、オメガのアイデンティティではあるが少なくともナチュラルではない。

96は文字盤も針もエポックメイキングであった。砲弾型のアプライドインデックスやドーフィンハンドの組み合わせは、96が最初ではないかと思っている。このデザインは懐中のRef.600に逆輸入された(と考えている)が、あれが違和感なく見えるのは96を見慣れているからに違いない。もしブレゲなどのアラビアやローマンが当たり前のなか、突然砲弾型アプライドインデックスにドーフィンハンドの600番が出たら、それはそれでエポックメイキングであったのではないか。そして96のあのインデックスと針のデザインは、大きな見やすい懐中の視認性を30mmサイズの中で再現するべく、必然的に生み出されたものだと考えている。

こうして96で一気に完成してしまった腕時計の基本的なパッケージ、それは極めてナチュラルなものであった。そしてこれ以降に出た腕時計は、およそすべてがこの呪縛に縛られることとなる。前述したツイストラグなどは、まさにその変える意思によってアイデンティティ化したものである。別にそれを批判しているわけではない。

96はケース・針・機械・文字盤のクオリティも”パテックの懐中”レベルであり、かつその建て付けも申し分のないものであった。これこそが高級腕時計の基本であり完成形なのである。

ここで話が最初に戻る。懐中は実用性が低い遺物のようなものとなり、腕時計すら役割を終えているとも思えるいま、自分が理想とする高級な機械式腕時計を現出させようとしている製作者たちがどこまでこういったことを意識しているか。パッケージの煮詰めよりも機械そのものに注力している例が非常に多いと感じるし、その力をパッケージそのものにも向ければもっと良くなるのになあ、と思えるものが非常に多いのである。

極論すれば、私は機械など見えなくても良い。優れたデザインと仕上げ、装着感を持ち、パッケージが完成された時計こそが理想である。そのような時計を腕にすれば、時間を見るたびに満足できるのだ。そんな時計こそが最終地点なのではないかと感じている。”優れた仕上げ”は”優れた設計やパッケージを完成させるもの”だ。良い仕上げの機械を入れただけの時計は、それだけで良い時計にはならない。パッケージングとは恐ろしく深い世界で、優れたバランス感覚をもち、高級機械式腕時計として纏めあげる力量をも持つ時計師・設計者は世界でも稀である。

ここに論理の飛躍があるのは理解しているが、きっとこの感覚は、本当にごく少数の人々しか共感してもらえないだろうな。

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2018年12月15日 (土)

パッケージの話にいく前のつなぎのエントリ

さて前回は手巻きの代表2機種についてつらつらと書いた。ここでそれ以外のエボーシュを使っている例を少し書く。

Hentschelhamburgwerk11

私の手持ちではAS1130を使っているHentchel。大きさや素性といいドレスウォッチに好適であり、ゆえにあのようなバランスのH1/H2など一連の作品を生んだのだと思う。やりたいことと機械のスペックがマッチした好例だね。なお同社は今やオリジナルムーブメント”Werk 1”も持っている。ENICAR自動巻きエボーシュを大量に保有していたクロノスイスは残念ながら弾が出尽くしたようだ。FEFとかMARVINとかちょっと珍しいエボーシュを使った時計もリリースして面白かったのだが。悪名高く懐かしいのはジャケ社が作ったVenus175コピーなんてのもあったが今や中国に流出。いわゆる高級機では、JLCエボーシュは今やリシュモンに属さないと絶対に入手不可だし、ヴァルフルリエも作ったがこれはほぼ量産カルティエ用。FPも本来スウォッチ内だけで、同グループ内ではバルグランジュなどETAも進化。ところでレマニアはどうなっているんだっけ?一時ブレゲの社屋と同じだったようだけど。さらに複雑系ではクリストフ・クラーレやパピなどもあるが汎用ではヴォーシェ、ETAジェネリックではセリタとSOPRODなどがまず思い当る。作りたいものがセンセコ自動巻きならETAジェネリックやミヨタでも良いが、高級かというと厳しいものがあろう。そんななか気を吐いているのがSandoz財団の資本が入るヴォーシェで、手巻き3針は無いものの3針自動巻きからクロノ、複雑系までをラインナップ済みである(なおSandoz財団はAtokalpa,など時計産業数社をバックアップしている)。とにかく、一昔前なら全てETAベースとなるはずが、ETA問題から業界全体が再編されて面白い展開になってきたことは間違いない。何を用いてどのような時計を作るか、独立系の選択肢が増えてきたのは事実である。

 

それではこれらエボーシュを用いた設計はどうなるのか。自ら機械そのものを設計・製作しない限りはエボーシュに頼ることになり、それをどうするかで方向性がほぼ決まってきてしまうという話を前エントリで書いた。手巻きの2機種では選んだ時点で大まかな方向性が出てしまうので、そうではない時計を造ろうと思うと今書いたような他の素性の機械の中から選ぶことになる。よって機械ありきのパッケージは致し方ない。ついでに言うと、イメージ通りの時計を造りたいから機械をいちいち新設計してきた90~00年代前半あたりのJLCは大好きである。

 

エボーシュを入手したのちに、機械に独自性を出すためやることと言えば、自動巻きならまずローターの加工または新造だろう。手巻きを考えればまずはブリッジの加工である。彫金は誰もが思いつくところであろうが工芸要素が全面に出るのに対し、実際に機械の本質的な部分は変わらない。(ここで彫金ムーブメントなのにソリッドバックという誰得な時計を思いついた。こういうくだらないアイディアが大好きなんで)

次は多分ブリッジの新造で、穴石を入手して正確な位置に押し込めればモノになっていくであろう。この先には穴石のシャトン受け化、機械の鍍金仕上げなどもオプションである。シャトンを18Kにすると貴金属の切削が必要になり、回収装置などの整備が必要で少し大掛かりになってくる。そしてその先には地板の新造、歯車の新造まで手を出すと、テンワ・ヒゲゼンマイを含むゼンマイ関係、ガンギ車とアンクル、爪石および穴石、耐震装置などのアソートメント以外を全て自作することになり、その先で初めてテンワの自作などに踏み込むことになってくる。順序的にはこれが通例であろう。

なのでブリッジなど見て分かり易いところに手を出さずに、いきなり脱進器周りから手を付けていくなどというのは機械の本質的な部分を改良しようという気概が満々で、非常に好ましいのであるがそんなメーカーは殆ど無い。まずは見てくれの差別化から入りたくなるのは心情的に理解できるものの、あえて脱進器周りの改良に手を付けてソリッドバックで閉じてしまう、なんていうのが硬派で良いのではないか。それこそハードコア腕時計だ。

パッケージの話をしよう思っていたがここまでは結果として前回の話と大差ない話となってしまった。次こそはパッケージの話を書くぞ。自分では本質に迫ったと思える、ある気づきがあったのだ。

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